The King's Museum

ソフトウェアエンジニアのブログ。

『ファスト&スロー』を読んで

『ファスト&スロー』を読んだ。

ファスト&スロー (上)

ファスト&スロー (上)

ファスト&スロー (下)

ファスト&スロー (下)

上下巻に別れた大作でかなり読み応えがあった。

いろいろなところで、同じ内容が重複して書かれていて冗長に感じたが、『読みたい箇所だけ読めるように』という配慮からくるものなのだろう。

内容が多岐にわたり、かつ、示唆に富んでいたので本当は書きたいことはいろいろある。 けど、全部書くとかなり長くなりそうだ。最も印象的な『経験する自己』と『記憶する自己』についてだけ忘れないように書いておく。

喉元過ぎれば暑さ忘れる

ファスト&スローでは人間の性質を3つの側面から論じている。

  • 速くて直感型の『システム1』と、遅くて熟考型の『システム2』
  • 完全に合理的な存在『エコン』と、合理的ではない存在『ヒューマン』
  • 日々の出来事を経験する『経験する自己』と、それを記憶し思い出して評価する『記憶する自己』

3つめの『経験する自己』と『記憶する自己』について簡単に説明しよう。

経験する自己は日々の生活を経験する自己である。毎日、朝起き、仕事に行き、帰宅し、ご飯を食べ、ベッドに横になる、という日常を経験する役割を担う。 一方、記憶する自己はそれらの出来事を取捨選択して記憶する。また、後から出来事を思い出し、それを評価する役割を担う。

「喉元過ぎれば暑さ忘れる」という言葉が示すように、私たちは経験する自己を軽視し、記憶する自己を重視している。これは意図的に行われているのではなく人間に備わった性質である。そのため、この性質は根本的に変えることはできない。

その結果、長期間の緩やかな苦しみよりも、短期的な激しい苦しみを避ける傾向にある。経験する痛みの総和は後者の方が少ないにも関わらず、私たちは短期的な激しい痛みをとても嫌がる。

幸福に関しても、毎日の穏やかな少量の幸せよりも、短期的な激しい幸せを追求する。経験する幸福の総和は前者の方が多いにもかかわらず、短期的な幸福を選択しがちである。

人間の人生は一般的に長期であるため、総和を無視し、短期的な絶対量のみを追求するのは合理的ではない。この「合理的ではない」という点は本書のテーマの1つでもある。そう、人間は合理的ではないのだ。

(ちなみに、不合理という言葉はネガティブな印象が強すぎるため使わない、というのが筆者の考えである。経済的な合理性を真として、それで説明できない人間を不合理とするのはあまりに乱暴である、と筆者は主張する)

2つの自己の矛盾

確かに人間は記憶する自己を重視している。私が大学時代に所属していたサークルは練習が厳しく、理不尽な規則があることで有名だった。練習は強制参加で、自分の出場しない試合も応援として参加しなければならない。大学生活という人生で一番自由な時間を辛い経験に消費してなんの意味があるのだろう、と悩んだ。

先輩達は「卒業した時、絶対やってきてよかったと思える」と声を揃えていっていた。確かに、自分も振り返るとそう思っている節がある。最後の大会でサークルが優勝した時の嬉しさは格別だったし、今でもその光景は覚えている。

この本を読んでいて、あれがまさに記憶する自己の重視なんだ、と気づいた。

一方、年収750万円以上では生活の幸福度が上昇しない、という研究結果がある。これは直感に反するように思える。年収750万円の人と年収1億円の人が同じ幸福度なのか、と。

この研究での幸福とは『経験する自己』の幸福だ。大富豪も中流家庭も日々の生活はそれほど変わらない。朝起き、ご飯を食べ、夜寝る。これらの点は年収が750万円より上だとしてもそこまで大きな変化はない。

この研究結果を引用し、年収の増加による幸福を否定するような言説を目にする。しかし、この2つの自己にまで言及されていることは少ない。先に書いたようにこれはあくまで『経験する自己』の幸福であり、『記憶する自己』の幸福は明確に異なる。

『記憶する自己』は年収の上昇に伴ってより幸福になる、という研究結果が出ている。年収が10億円あればリゾートで素晴らしい体験を送ることができる。世界的な富豪であれば宇宙にだって行けるだろう。よりよい体験ができ、それらの思い出にふける時、記憶する自己はより幸福になる。

年収の増加によるこのような幸福の否定は、『記憶する自己』の否定でもある。

幸福になるには

人間の性質上、『記憶する自己』を過大評価する傾向は取り消せない。やはり『記憶する自己』は重要であり、年収750万円よりも年収10億円の方が幸福であろう。

しかし、『経験する自己』を過小評価しすぎると、日々のクオリティオブライフを下げることになる。私たちは『記憶する自己』を過大評価してしまうのだから、『経験する自己』をもう少しだけ大事にしてもよいのかもしれない。

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